平安時代

日本史

平安時代は794年から1185年までの約400年間にわたる日本の歴史で、桓武天皇が平安京(現在の京都)に遷都したことに始まります。

この時代は、律令制度の確立とその後の崩壊、仏教の発展、荘園制度の広がり、そして藤原氏による摂関政治など、多くの重要な変革がありました。

平安時代は日本文化の形成期としても知られ、文学や芸術が大いに栄えました。その平安時代についてまとめました。

試験で問われること

  • 桓武天皇が長岡京・平安京へ遷都した理由とその影響。
  • 桓武天皇の政治改革(役職・役所の整理、国司の取り締まり、農民の負担軽減)。
  • 摂関政治の始まりと藤原氏の台頭。
  • 藤原道長・藤原頼道の全盛期における摂関政治の特徴。
  • 摂政と関白の役割。
  • 税負担から逃れるために土地を捨てたり戸籍を偽ったりした農民の行動。
  • 私有地(荘園)の拡大と寄進地系荘園の形成。
  • 国司の不正行為と地方政治の乱れ。
  • 天台宗の開祖最澄(伝教大師)の活動と比叡山延暦寺の役割。
  • 真言宗の開祖空海(弘法大師)の活動と高野山金剛峰寺の役割。
  • 天台宗と真言宗の教義や修行方法の特徴。
  • 平安時代における仏教の社会的・文化的影響。
  • 『源氏物語』や『枕草子』といった平安時代の文学作品の特徴とその作者。
  • 平安時代の貴族文化と文学の関係。

律令国家の再建と放棄

奈良時代の混乱

奈良時代の後半、奈良の平城京では貴族や僧侶の勢力争いが激化し、政治が混乱していました。仏教が国家の中心に据えられたことにより、仏教関係の支出が膨らみ、財政難に陥りました。大規模な寺院の建設や運営には莫大な費用がかかり、国家の財政を圧迫しました。また、仏教勢力が政治に介入し、権力争いがさらに激化しました。これらの要因が重なり、奈良時代の政治は次第に混乱と停滞を見せるようになりました。

桓武天皇の改革

このような状況を打開するために、桓武天皇は政治改革を行うことを決意しました。まず、784年に平城京から長岡京へ遷都しました。長岡京は新たな都として期待されましたが、地理的条件や自然災害、政治的陰謀などの問題により、うまく機能しませんでした。

そこで、桓武天皇はさらに794年に平安京へ遷都しました。平安京は、現在の京都市に位置し、地理的にも防衛に適し、交通の便も良かったため、新しい首都として選ばれました。平安京への遷都は、奈良時代の混乱を収束させ、政治の立て直しを図るための重要な一歩でした。平安京では、貴族や僧侶の勢力を抑え、中央集権的な政治体制を強化しようとしました。

桓武天皇の遷都政策は、平安時代の長期的な安定と繁栄の基礎を築き、日本の歴史における重要な転換点となりました。

桓武天皇の政治改革

桓武天皇の改革の内容

役職・役所の追加や整理

桓武天皇は、中央集権的な体制を強化するために、役職や役所の追加と整理を行いました。彼は中央政府の官僚機構を見直し、効率的に機能するように改革しました。これにより、行政の効率化と統制力の強化を図りました。

国司の取り締まり

地方政治の腐敗を抑えるために、国司の取り締まりを強化しました。国司は地方行政を担当する役人ですが、彼らの中には不正な税の取り立てや私利私欲に走る者が多くいました。桓武天皇は、こうした不正を防ぐために監察官を派遣し、国司の行動を監視・取り締まりました。

農民の負担軽減

農民の負担軽減にも取り組みました。奈良時代には、重い税負担や労役が農民の生活を圧迫していました。桓武天皇は、農民の負担を軽減するために税制を見直し、農民が耕作に専念できる環境を整えようとしました。また、農業生産の向上を図るために新たな灌漑設備の建設や耕地の拡大を奨励しました。

東北地方の支配

坂上田村麻呂と蝦夷

桓武天皇は、東北地方に住む蝦夷(えみし)の反乱を鎮圧するために、征夷大将軍として坂上田村麻呂を任命しました。坂上田村麻呂は、軍事的な才能を発揮し、蝦夷の首長であるアテルイを降伏させました。

この降伏は、802年に実現し、朝廷の支配力を東北地方に広げる一助となりました。

戦後の東北地方の状況

アテルイの降伏後、東北地方では一時的に朝廷の支配が強化されましたが、その後も蝦夷の抵抗は続きました。朝廷は、東北地方の支配を確実にするために、城柵(じょうさく)を築き、軍事拠点を設置しました。これにより、蝦夷との戦闘を続けながらも、徐々に地域の安定を図りました。

桓武天皇の改革は、中央集権体制の強化と地方の安定化を目指したものであり、平安時代の基盤を築く上で重要な役割を果たしました。

平安仏教の発展

平安仏教の発展

天台宗と最澄(伝教大師)

天台宗の開祖最澄 天台宗は、奈良時代の末期から平安時代初期にかけて活躍した僧侶、最澄(さいちょう)によって開かれました。最澄は、767年に近江国(現在の滋賀県)で生まれ、15歳で出家しました。仏教の修行と学問に励んだ最澄は、804年に唐(中国)に渡り、天台山での修行を通じて天台宗の教えを学びました。

比叡山延暦寺 最澄は帰国後、比叡山に延暦寺を建立しました。延暦寺は、天台宗の総本山として知られ、日本仏教の中心的存在となりました。比叡山は、京都の北東に位置し、自然に囲まれた静かな環境で修行に適していました。最澄は、「一乗(いちじょう)」という思想を提唱し、すべての人々が仏道に入ることができると説きました。また、延暦寺では、僧侶の教育機関として多くの優れた僧侶を輩出し、日本仏教の発展に大きく貢献しました。

真言宗と空海(弘法大師)

真言宗の開祖空海 真言宗は、最澄と同時期に活躍した僧侶、空海(くうかい)によって開かれました。空海は、774年に讃岐国(現在の香川県)で生まれ、15歳で平安京に上り、学問と修行に励みました。804年に唐に渡った空海は、青龍寺で密教の教えを学び、帰国後に真言宗を開きました。

高野山金剛峰寺 空海は、紀伊国(現在の和歌山県)にある高野山に金剛峰寺を建立しました。高野山は、真言宗の総本山として知られ、密教の教えを広める拠点となりました。空海は、「大日如来」を本尊とし、密教の秘法を伝えました。真言宗の教えは、仏教の深遠な教義と修行法を重視し、仏の智慧を直接伝えるものとされました。金剛峰寺は、密教の修行道場として多くの僧侶を受け入れ、真言宗の教えを広めました。

天台宗と真言宗の影響

天台宗と真言宗は、平安時代の仏教界に大きな影響を与えました。最澄と空海はそれぞれ異なる教えを持ちながらも、共に日本仏教の発展に貢献し、多くの優れた僧侶を育成しました。彼らの教えは、後の日本仏教の基盤となり、文化や社会にも大きな影響を与えました。

律令体制の崩壊

律令体制の崩壊

税負担からの逃避

重い税負担の影響 8世紀以降、奈良時代から続く重い税負担が農民の生活を圧迫しました。租税制度である「租庸調」は、農民に対して米や布、特産品を納める義務を課しました。さらに、労役(雑徭)も農民にとって大きな負担となりました。これらの税や労役の負担に耐えられなくなった農民たちは、様々な手段で逃避を図るようになりました。

土地を捨てる・戸籍を偽る 多くの農民が重い税負担から逃れるために土地を捨て、行方をくらませました。また、戸籍を偽ることも一般的になりました。戸籍を偽ることで、税の負担を回避しようとする者が増えたのです。これにより、国家は徴税が困難になり、班田収授法(耕地を定期的に再分配する制度)の実施も難しくなりました。

私有地の拡大

初期荘園の形成 農民たちが土地を捨てたり逃避した結果、耕作地が荒廃するケースが増えました。この状況を背景に、貴族や寺社などが荒廃地を開墾して私有地とする動きが広がりました。彼らは労働力を集めて新たな農地を開墾し、初期荘園を形成しました。荘園は、税の免除や特権を得るために中央政府と特別な関係を結ぶことが多く、次第に大規模な私有地として拡大しました。

私有地の管理 新たに開墾された私有地(荘園)は、貴族や寺社、地方の有力者によって管理されました。開墾者は農民たちを労働力として雇い、収穫物を得ることで経済的な利益を享受しました。荘園の所有者は、土地の管理や年貢の徴収を行い、地方の経済と政治に大きな影響を与えるようになりました。

荘園制度の影響 私有地の拡大と荘園制度の確立は、律令体制の崩壊を加速させました。中央政府の力が弱まり、地方分権的な傾向が強まりました。これにより、地方の有力者や荘園領主が実質的な支配者となり、地方政治の乱れや不正な税の取り立てが横行するようになりました。

これらの動きは、平安時代後期の政治・社会の変動に大きな影響を与え、武士階級の台頭や地方豪族の力の強化に繋がっていきました。

地方政治の混乱と荘園の広がり

律令体制の崩壊と地方政治の混乱

国司の不正

国司の権限強化 10世紀になると、中央政府の力が弱まり、地方の政治が国司(こくし)に大きく依存するようになりました。国司は、地方の行政を担当する役人であり、その地域の税収を管理し、治安を維持する役割を持っていました。しかし、中央からの監視が緩くなり、国司は地方で大きな権限を持つようになりました。

不正な税の取り立て 国司の中には、自らの利益を優先する者が現れました。彼らは不正な税の取り立てを行い、農民たちに過剰な負担を強いました。例えば、本来の税額よりも多くの税を徴収したり、税を納められない農民から財産を強制的に取り上げるなどの行為が横行しました。また、国司自身が徴収した税の一部を私物化し、中央政府に報告する税額を少なくすることもありました。このような不正行為は、地方の政治をさらに混乱させ、農民たちの生活を困窮させました。

荘園の広がり

初期荘園の拡大 10世紀以降、地方の元役人や有力農民は、荒廃した土地を開墾して私有地(荘園)を広げるようになりました。これらの荘園は、貴族や寺社の保護を受けることで、税の免除や特権を得ることができました。地方の有力者たちは、労働力を集めて新たな農地を開墾し、経済的な利益を追求しました。

土地の寄進と税の免除 11世紀以降になると、荘園制度はさらに広がり、地方の有力者たちは自らの土地を皇族や貴族、寺社に寄進するようになりました。寄進とは、自分の所有地を神社仏閣や有力者に寄付することを意味します。寄進された土地は、寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)と呼ばれ、寄進先の権威により税の免除などの特権が認められることが多くありました。これにより、土地の所有者は経済的な負担を軽減することができました。

荘園領主と地方政治 寄進地系荘園の拡大に伴い、荘園領主は地方政治においても大きな影響力を持つようになりました。荘園領主は、自らの土地を管理し、年貢を徴収するために武装した家臣団を組織することが一般的でした。これにより、地方では武士階級の台頭が進み、中央政府の影響力はますます弱まりました。荘園制度の広がりは、地方分権化を促進し、律令体制の崩壊を加速させました。

これらの変化は、平安時代後期の政治・社会の基盤となり、武士階級の確立や地方豪族の力の強化に繋がっていきました。

藤原氏による摂関政治

摂関政治の始まり

藤原氏の台頭

9世紀ごろから、藤原氏は次第に力をつけていきました。藤原氏は、大化の改新以来、天皇を補佐する役割を担っていましたが、桓武天皇の時代を経て、その影響力をさらに拡大していきました。特に、藤原良房やその子の藤原基経は、摂政や関白の職を通じて天皇を補佐し、朝廷内での権力を強化しました。

摂関政治の確立

10世紀後半になると、藤原氏は摂関政治を確立しました。摂関政治とは、摂政と関白を中心とする政治体制のことです。摂政は、天皇が幼少である場合に代わって政務を執り行う役職であり、関白は天皇が成人後にその補佐をする役職です。藤原氏は、自分たちの娘や姉妹を天皇の妃にすることで、外戚関係を強化し、天皇と密接な関係を築きました。これにより、藤原氏は天皇の側近として絶大な権力を持つようになりました。

摂関政治の全盛期

藤原道長と藤原頼道の時代

摂関政治が全盛期を迎えたのは、11世紀前半の藤原道長(ふじわらのみちなが)とその子、藤原頼道(ふじわらのよりみち)の時代です。藤原道長は、四人の娘を天皇や皇太子の妃とし、自らの権力を強固なものとしました。

藤原道長の権力 藤原道長は、摂政や関白として長期間にわたり政権を掌握しました。彼の時代には、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という有名な歌が示すように、自らの権力が頂点に達したことを誇示しています。道長は、朝廷の実質的な支配者として、政治の中心に君臨しました。

藤原頼道の時代 道長の死後、その息子である藤原頼道が後を継ぎました。頼道は、父の遺産を引き継ぎ、さらに摂関政治を発展させました。彼の時代には、朝廷の権力構造がますます藤原氏に依存するようになり、藤原氏の権勢は頂点に達しました。頼道もまた、摂政や関白として長期間にわたり政権を維持し、政治の実権を握り続けました。

摂関政治の特徴

摂関政治の時代には、藤原氏が朝廷の実権を握り、天皇を形式的な存在に留める一方で、実質的な政治を運営しました。藤原氏は、自らの権力を維持するために、巧妙な政治戦略を駆使し、外戚関係を通じて天皇家と密接な関係を保ちました。また、藤原氏は文化や学問の保護者としても重要な役割を果たし、平安時代の文化的な繁栄に寄与しました。

摂関政治の全盛期である11世紀前半は、藤原氏の権力が絶頂に達した時代であり、藤原道長と藤原頼道の統治下で日本の政治と社会は大きく変化しました。

まとめ

平安時代を振り返ると、律令制度の再建とその崩壊、そして摂関政治の確立と影響は、この時代の政治と社会を大きく形作りました。

文化的繁栄とともに、平安時代は日本の歴史において重要な過渡期であり、後の時代に大きな影響を与えたことがわかります。平安時代は日本の歴史において非常に意義深い時代であったと言えます。