江戸中期の海外との付き合い方・外国船の接近

日本史

ロシアとの関係

ロシアとの関係性が少し変わる。

1792年 ラクスマンが根室に来航
1804年 レザノフが長崎に来航

アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(露: Адам Кириллович Лаксман, 典: Adam Laxman、1766年 – 1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。ロシア最初の遣日使節。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民の大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。アダム・ラックスマンとも表記される。

アダム・ラクスマン - Wikipedia

ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: Никола?й Петро?вич Реза?нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) – 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東およびアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。

ニコライ・レザノフ - Wikipedia
  • ロシアが日本に通商を要求
  • しかし日本は交渉を拒否
  • 近藤重蔵、間宮林蔵らに北方に調査させ、蝦夷地の支配体制を強化する

ラクスマンにレザノフ。今でも普通に居そうな名前。日本人は結構名前のはやりすたりがあるけど、ロシアはないのかな?

イギリス船・アメリカ船

フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。

フェートン号事件 - Wikipedia

異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)とは、江戸幕府が1825年(文政8年)に発した[1]外国船追放令である。無二念打払令(むにねんうちはらいれい)、外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)、文政の打払令(ぶんせいのうちはらいれい)とも言う。1842年(天保13年)に「薪水給与令(天保の薪水給与令)」が発令されると廃止された。

異国船打払令 - Wikipedia

モリソン号事件(モリソンごうじけん、英: Morrison Incident)は、1837年(天保8年)7月30日、アメリカ合衆国の商船「モリソン号」を日本の砲台が砲撃した事件。

鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカのオリファント商会の商船「モリソン号」をイギリス軍艦と勘違いし、薩摩藩および浦賀奉行太田資統は異国船打払令に基づき砲撃を行った(江戸湾で砲撃を命ぜられたのは小田原藩と川越藩)。

しかし、このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたことが1年後に分かり、異国船打払令(外国船打払令)に対する批判が強まった。

モリソン号事件 - Wikipedia

蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英・渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど処罰された。

蛮社の獄 - Wikipedia
  • 18世紀末以降 外国船が日本に頻出
  • 1808年 フェートン号事件(イギリス船)
  • 1825年 異国船打払令
  • 1837年 モリソン号事件(アメリカ船)
  • 1839年 蛮社の獄

外国船が日本にバンバン押し寄せて、なおかつ事件まで起こしている。イギリス船が来たから撃ち落とせ、貿易している国のやつも撃ち落とせ!と異国船打払い例を出す感じ、戦闘民族間あるね。

・・・で、モリソン号ってペリーの黒船より前に起きているよね。ってことは、ペリー来航時に日本はアメリカ船ならびに外国船にすでにだいぶ慣れていたのでは?と思ったり。

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