自分の考えが多数派である。
そこに安心感を感じるのが人間ってものなのかもしれません。
集団でいきることがDNAに刻まれている哺乳類なのですから。
だから多数派であることこそが良くて、その延長に民主主義というものがありますので、社会もどこか多数派であることは正しいとしている向きもあると思います。
ただ、自分を大切にするという意味においては、多数派を正しいって思っていたり、多数派だから安心と思いすぎないほうが良いんじゃないかな?と思うんです。
大切なのは、”1の集合体”として見る意識なんじゃないかな?と。
そう思うんです。
多数派に正しさや安心感を感じる理由
多数派だから安心したり、多数派を良しとする心理というものがあります。
それを”多数派同調バイアス”と言います。
「多くの人がそう考えたり行動したりするのであれば、それが正しいのだろう」と判断するというものである。文化形成に必要な社会的行動を誘発する心の働きである。
その一方で、災害や事故の発生時や危機的な状況に遭った際に、周囲の人がその場を離れなかったり危険を回避する行動を取らなければそれに同調してしまい、避難や初動対応の遅れの原因となることがある。
”みんながそうしているから”という理由でそうしている個人の集合体が多数派という見方もできるという心理理論です。
そんな心理理論によって多数派が形成されるのですから、本当に多数派であることは安心材料なのでしょうか?本当に正しいのでしょうか?
引用文にもありますが、みんながそこに居るからという理由で避難しているその場所が、本当に非難に適した場所なのかとなると、実は不適切な場所かもしれません。
”みんながそうしている”という理由で物事を決めがちですが、だから正しいとは限らないのです。
キャズムという考え方
マーケティングの世界では、キャズムって考え方があります。
全消費者の16%以上がその商品やテクノロジーを使い始めた時に一気に広がるといった理論で、その16%超えられるのかどうかがヒットして定着するのか否かを左右する溝(キャズム)とされています。
たった16%の人が使っているだけで「みんな使っている」と錯覚するのが人間のもつ習性らしく、みんな使っているからということで、他の人もそれを使おうとするそうです。
これも”みんな”に同調する心理です。
長いモノには巻かれたいと思っているのです。
自分を愛するために多数派に流されないことも大切
多数派に流れることがダメってことではありません。
そうするほうが合理的な事が多かったので、自然と身につけている術ではあるのですが、本当にいつも合理的なの?ってなると、いつも合理的とは限らないというのが”多数派同調バイアス”で説明されているのですが、これは自分を愛する、好きになるというプロセスでも当てはまることがあります。
他の人と違う=ダメは本当?
自分が他の人と違う。
そこが自分を好きになったり、愛する上での悩みの種になることがよくあります。
「自分は他の人のようにXXができない」とか「自分は他の人とは考えが違う」とか。
そのような他の人との違いで悩む背景には、他の人と違うからダメなことという思い込みが隠れていると思うのです。
でも、他の人と違うことはダメなことなのでしょうか?
例えば、身長が他の人よりも大きいことはダメな事でしょうか?
その悩みを解決するために、身長を削って平均身長に合わせにいくことは、正しいこと、やるべきことだと思いますか?
思いませんよね。
でも、内面に関することは、そういう事を結構多くの人がやろうとしていませんか?
”みんな”は何もかも同じ?
みんなと同じであることを追い求める。
これはロボットを作る人の考え方と同じだと思うのです。
設計図があって、その設計図通りに寸分たがわない精度で作っていく。
少しでも違う部分があれば、直すが排除する。
これがみんなと同じを追求するということだと思うんです。
ロボットを作っているのならそれでいいと思いますが、人間にそれを当てはめるのは、ちょっと無理がありませんか?
あなたと誰かに共通点があるとしても、あなたと何もかも全く同じという人はこの世には居ませんよね。
あなたが双子や三つ子などの、同時に生まれた兄弟が居るのなら話は少し変わりますが、それでも全く同じじゃありませんよね。名前は違うし、兄姉という役割をどちらかが担いますから、価値観などで違いが生まれていきます。
この世に自分と同じ人が居ないのに、他の人と違うことを悩むってのは矛盾してますよね。
みんなと違う部分があるとしても、何ら問題はないはずです。
赤色にもいろいろな色がある
僕は、自分自身を認めたり、愛するためには、1の集合体であることを意識することが大切なんだと最近よく思っています。
100人は1人が100人いるのであって、100人の背景には100通りの個性があると思うのです。
でも、100人って書くと、全く同じ思い、同じ考えの人が100人いるかのような錯覚を覚えることもあります。
実際はそうじゃないはずです。
100人の賛同者が居るとしても、なんとなくって人も、仕方なしにって人も、熱烈にって人も居ます。
でも、何がどう違うのかを考えるのが面倒だったり、自分はその考え方とは違うと意思表明することにもリスクを感じるので賛同しているという人もいます。
100人と言えども、よーく見ると色が違うのです。
赤色と思っていたけど、よく見ると、あの人の赤は薄いな・・・とか、あの人の赤は紫に近いよな・・・とか。
でも、ざっくりと分類したら赤色ってだけなのです。
1の集合体としての100なのであって、100の中の1ではないのです。
大切なのは、どんな1なのかだと思うんです。
つまり・・・
寂しいと感じたり、反発が多くて辛いなと感じたり。
これからの感情は、集団の中で味わうものだと思うのです。
盛り上がっている輪の中に入れない孤独感とか、自分の意見に対しての反発が多い辛さといった感じだと思うのです。
その孤独感などがつらすぎる時に、輪の中に入ろうとして自分を偽ったり、妥協したりして、相手との共通点を探り、輪の中に入る。そんな思考や行動を取ることもあると思います。
その行動がダメってことはありませんが、ポイントは、自分も1つの意見に過ぎず、相手も1つの意見に過ぎない、同じ1なんだということです。
自分はそう思う、そう感じるという1です。
相手は、それを良しと思わないという1です。
多数派につくことが正義だと思っていたりする1もあります。
その1に賛同者がついたら、2、10、100と増えていくように感じますが、分解していくと、こう思っているという1とそれに賛同する1が多数という構図だったりします。
つまり、多数派は多数派に見えるだけで、濃淡のある1の集まりですから、多数派の中にいても、俺よりあの人は濃い薄いという色の違いが気になるものです。
1人1人が違う人間なのですから、ずーっと1なのです。
そこを受け入れて、じゃあ自分はどんな1なんだろうと感じ考え、どんな1にしていくのかを決めて、行動する。
それが自分の人生を生きるって事なのであって、それに正解も不正解もないと思いますよ。
だから、僕が言いたいのは「多数派だから正しい」「多数派だから安心」と思っているのなら、その価値観を疑ったほうがいいよってことです。